2012年6月29日金曜日

淡窓詩話(22)

淡窓詩話下卷
淡窓廣瀬先生著   
男 範世叔校   

◯ 中川玄佳問 詩を作るの要、何を以て先とすべきや。


詩を作るには、位置を知るを以て先とす。三體詩の前實後虛、前虛後實、四實四虛の類、予始は無用の事とのみ思へり。今を以て觀れば、實に律詩を學ぶの要務なり。

律詩の前虛後實、前實後虛、絶句の起承轉合の類、是れ位置なり。位置卽ち篇法なり。古詩の位置は段落を明にするに在り。段落の分ち難きは、位置の正しからざるなり。是れ作者初より篇法あることを知らずして、口に任せて云ふ故なり。篇法已に正しくして、而後佳句を以て其間に挿む。詩家の能事畢れり。

少陵が「爲人性僻耽佳句。語不人死不休。」、また「陶冶性靈底物。新詩改能自長吟。」、此兩言、詩を學ぶの要務なり。少陵が詩聖たる所以は、全く此にあり。學者心を留むべし。

陸機が文賦に、「立片言以居要。乃一篇之警策。」と。此言最も詩に切なり。少陵が所謂佳句卽警策なり。此處に意を用ひば、必ず一世に詩名を成すべきなり。古今詩に名ある人、皆然らざるはなし。其門に在る者も、作家に非ずと雖も、往々一詩一聯を以て、名を後世に傳ふる者あり。博學能文の人たりとも、此處に心を用ひざる人は、詩に名なし。其門流の人も、亦一聯の賞すべきなし。

今人詩を學んで、佳境に至るを得ざること、其病根短を護するに在り。たヾ疵瑕の無きことを務め、觀者をして喙を容るヽ能はざらしめ、 以て意に慊れりとす。此の如くなれば、詩の佳趣妙境は、自然において論せず。唯字句の論のみにて過ぐるなり。人に正を乞ふも。其求むる所、疵瑕を去つて傍人の口を塞ぐに過ぎず。能々思ふべし。石は如何程無疵にても、玉の疵あるに如かず。李杜の詩とても、疵は如何程もあることなり。全篇無疵にて一佳句の摘むべきなきよりは、佳句ありて疵の多き方、遙に勝れりと知るべし。但し疵ありても佳句あるを善とすとは、位置正しくして、其中の字句に疵あるを云ふなり。若し位置あることを知らずして作れる詩は、佳句ありとても置くべき處なし。

孔子は之を非るに非る可きなきの郷原を取らずして、行ひ言を掩はざるの狂者を取り玉へり。今の詩人、詩に疵さへなゖれば好しと思ふは、詩中の郷原たることを求むる者と云ふべし。

古人云、「千練して字を成し、萬錬して句を成す」と。賈島は「獨行潭底影。數息樹邊身。」と云ふ句を三年にして作り得たり。自ら其後に題して曰、「二句三年得。一吟雙涙流。知音如不賞。歸臥故山秋」」と。古人の苦心想うべし。

予嘗て或人の稿に題して曰、「諸作非佳。但讀之生睡。其故有三。一曰、有篇而無句。二日、意象所無。虛構假設。三曰、 命意立言。不於花草蜂蝶之間。」と。今人の詩此類多し。

詩を学ぶ者、四の疾あり。一には速に成るを求めて、槌練苦思すること能はず。二には多く作るを貧りて、巧拙を擇ばず。三には全篇の疵なきを求めて、佳句を得るの望なし。四には難題を務めて人に誇らんとす。此四疾除かざれば、生涯詩の佳境に到ることななし。

遲く作りて速なること能はざるは、鈍才なり。速に作りて遲きこと能はざるは、粗才なり。鈍才は教ふ可く、粗才は教へ難し。

明人の詩論は、人を誤ること多し。胡元瑞が曰はく、「句に字眼あるは句の疵なり。少陵が『地坼江帆隠。天清木葉聞。』は『地卑荒野大。天遠暮江遲。』に如かず。『返照入江翻石壁。歸雲擁樹失山村。』は『藍水遠從千澗落。玉山高並兩峰寒。』に如かず」と。世人往々此腐談に惑はされて、渾成自然を口にし、生涯一佳句を得ずして終る者多し。