2012年7月30日月曜日

淡窓詩話(終)

○汎く詩を論ず



文人壽康なる者あり。短折なる者あり。今其集に就て之を讀むに、志氣和平なる者、天眞に任ずる者は、率ね壽康の人なり。志氣忿狷なる者、奇を好み險を弄する者は、率ね短折の人なり、天授の在る所は、得て强襪ふべからず。然れども亦擇む所を知らずんばあるべからず。

詩文の道、主意先づ定まるは天授なり。辭を以て之を飾るは、其人に存す。若し其辭を巧にせんとして、其意を改めば、展轉推移、何ぞ期極あらん。思の苦む所以なり。之を人を以て天を滅すと謂ふ。禍を招くの道なり。

予嘗て和漢五絶の風趣あるもの四首を選んで、以て居室の聯と爲す。「覆衾成異夢。峽裏碧桃深。溪深不渡。一犬吠花陰。」、「來時桃花口。流水二三尺。一夜春雨生。渺漫歸不得。」、「午睡無人喚。醒來心自驚。夕陽如意。偏傍小窓明。」、「風簾動返照。柯影舞如人。石鼎茶前水。衣桁浴後巾。」、平生の所作に就き、之に近きものを求むれども、未だ得ず。

徂徠の少年行、「呼盧百萬楊州去。二十四橋是我家。」(「年少聰明勝阿爺。早知身世等空花。呼盧百萬楊州去。二十四橋是我家。」)、茶山の詠俠客、「門前馬柳君須記。嘗縛官家劉寄奴。」(「槖裡千金逐手無。稜稜逸気叫呼廬。門前馬柳君須記。嘗縛官家劉寄奴」)、人は、菅の巧密を賞す。吾は物の風趣を愛す。

近時詩家に一種の弊風あり。事を叙するに必ず詳悉ならんことを欲し、意を寫すに必ず痛快ならんことを欲す。而して風神氣格の何物なるを知らず。古人一唱三歎の韻、地を拂へり。

清秀を尚ぶ者は、氣骨に病む。新奇を貪者は、聲調に乏し。

予が詩簡潔を喜び、繁縟を喜ばず。峭勁を喜び、浮緩を喜ばず。漫興破悶の作を喜び、課題詠物の什を喜ばず。遠思樓前編は後編の渾成自然なるに如かず。後篇は前編の巧緻精密なるに如かず。

當今の詩に二弊あり。淫風と理屈となり。詩人の詩は淫風に流れ易く、文人の詩は理屈に陥り易し。二者相反す。其害は一なり。淫風とは何ぞや。獨り男女の際のみならず、梅を詠じ菊を詠じ、字句を雕繪し、綺靡浮華、以て機巧を競ふもの、皆淫風なり。理屈とは何ぞや。得り法語の言のみならず、叙事を主とし、議論を專らにし、文を以て詩と爲すもの、皆理屈なり。李商隠、温庭筠は唯是れ詩人の詩のみ。韓昌黎、蘇東坡は、未だ文人の詩を免れざるなり。李杜は、昭々として日月の如し。篇に巧拙あり。而して道に偏綺なし。李の樂府諸題、艷麗柔婉、而して淫風に流れず。杜の諸將五首、議論崢嶸、而して理屈に陥らず。善く之を學べば、二弊を免る﹅ことを得べし。

人各悟入する所あり。帆鵬卿曰はく、「和人の文を作る、恰も獮猴の演劇の如し。奇と爲すべし。巧と爲すべからず」と、是鵬卿の悟入する所なり。予嘗て曰はく、「詩文、能く讀む者をして倦まざらしめば、名家と稱すべし」と、是予が悟入する所なり。

古人曰はく、「無題の詩は、天籟なり。有題の詩は人籟なり」と、杜少陵、陸放翁などの集を觀るに初に題を定めて作りたる詩は、十の一なり。其九は詩成りて後題を置けるものと覺ゆ。今の人の詩は是に反す。 今人の詩、探題詠物の類を專にす。皆題に因りて詩を生ずるなり。次韻は韵に因りて詩を生ずるなり。是其人工に落ちて、天然の趣なく、古人に及ばざる所以なり。若し此處に意を用ひば、古人の妙處に至ること難からず。

古人の詩を讀むには、批圏を加へて觀るべし。此の如くすれば、己れが心の好むと好まざる處、自然と定まるべし。固より妄批にして當らぬこと多かるべけれども、聊かも苦しからず。後年に至り、批圏の當らざることを覺えば、改めて之を加ふべし。初度に朱を用ひば、次には青或は墨を用ふべし。批圏の前後同じからざる處に就て、己が見識の長進する處を考ふべきなり。

詩を作らば、一首にても棄つべからず。 必ず記録すべし。千首にも至らば、其内に就き佳作の三四百首を選んで、一部の詩集を編むべし。其後又此の如くにして、二編三編四編と爲すべきなり。此の如くにして、初年中年晩年の詩を前後相照し、以て己が及ばざる處を觀、務めて一歩を進むるの工夫を爲すべし。今の人詩を作り棄てにして録せざる者あり。大に不可なり。是れ心掛なき故なり。

我邦の人は書を讀むこと多からず。故に見識なくして、人の眞似をすることを專一と心掛くるなり。是を名けて矮人觀場と曰ふ。今其一二を云はんに、王朝の時、白樂天の詩を好む人ありしに、一代の詩、盡く白樂天を學べり。李、杜、王、孟、諸家の詩は、之を高閣に束ねて、讀む人なし。但し其詩は書籍も少かりしなり。近世明調行はる﹅に及んで、徂來、李王を推し尊ぶ、故に一代の明を學ぶ者、皆李王體なり。李、何、徐、袁、の諸氏など絶えて讀む者なし。近來又宋を學ぶ者あり。皆陸放翁を師とす。清を學ぶ者あり。皆袁子才を師とす。此の如く一代の中にて一人を限りて之を學ぶ。甚だ愚かなることなり。是皆初め唱へし人の眞似をするなり。凡そ物は少きを以て貴しとす。假令夜光の珠たりとも、家々に貯へなば、誰か是を貴ぶ者あらんや。詩境も亦然り。百人は百人、千人は千人、皆同じ處を心掛けなば、如何に巧みに致したりとも、人を驚かすことあるべからず。且人心の同じからざること、其面の如し。詩は心を寫すものなれば、必ず不同あるべきなり。然るに此の如く一様になること、其人の天然にはあらず。强て世俗の流行する處に合はする者なり。畢竟詩中の郷原と謂ふぺし。故に多く古集を讀み、而後己が性の好む處と、才の近き處とを擇んで、之を學ぶに如くはなし。

詩を作るには、壁立千仭の氣象あることを要す。今人の詩、多くは冗長疎緩にして、氣象弱し。是れ恥づべきことなり。氣象を養ふには、李、杜、韓、蘇、の諸大家に熟するを善しとす。

予前に白香山の詩人に益あることを云へり。今之を思ふに、人に因りては益あるべけれども、當時我邦の人之を讀まば、大方は冗弱に流れん。予が前言失せり。

或人予に問て曰はく、某が如き者、古に於て何人之詩を學びて可ならんやと。予答へて曰はく、誰にても子が好む所を學ぶべし。己が好む所に非れば、其妙處を得ること難しと。問、某古人に於て誰を好み、誰を好まずと云ふことなし。冀はくば先生某が爲めに之を定め玉へと。予曰はく、今吾子食することあらんに、食前方丈、一々食盡すこと能はずんば、必ず其中に就て、己が嗜む物を擇んで之を食ふべし。古人詩境の同じからざること、猶ほ鷄猪魚蒜の其味を異にするが如し。然るを皆一様にして、嗜むこともなく嫌ふこともなきこと、豈人情ならんや。是れ他なし。食に於ては之を好む。故に味の不同を知る。詩は之を嗜むこと食に如かず。故に衆不同ありと雖も、其差別を知らず。吾子果して詩を好むこと、食を好むが如くならば、假令師父の命たりとも、何ぞ其好む所を廢めて、他に從はんやと。凡そ今の人、詩を作ることを好んで、古詩を讀むことを好まず。故に之を讀むと雖も其味を知らず。既に古詩の味を知らず、故に又己が詩の味あると味なきとを知らず。ただ漫然と字を並ねたるのみ。此の如きの人、與に詩を言ふべからず。

淡 窓 詩 話 終

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