2013年6月21日金曜日

江戸詩人選集〈第6巻〉葛子琴・中島棕隠

岩波書店「江戸詩人選集〈第6巻〉葛子琴・中島棕隠」By 水田紀久。



江戸詩人選集 全10巻。
品切重版未定。古本での入手となります。
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【岩波書店 紹介文より】
医者を本業とした葛子琴は,上方詩壇の中心的存在であった大坂の混沌社に参加.詩才随一と称されたが,笙や篆刻などもよくする多才の人であった.代々京都の儒者の家に生れた中島棕隠は,才子・粋人として知られ,祗園を詠んだ連作風俗詩『鴨東四時雑詠』で詩名を喧伝された.上方を代表する2人の詩人を紹介する.

葛子琴・中島棕隠の略伝



【葛子琴 略伝(Wikipediaより)】
葛子琴(かつ しきん、男性、元文4年(1739年) – 天明4年5月7日(1784年6月24日))は、江戸時代中期の日本の漢詩人・篆刻家である。天賦の才を持った詩人と評され、一方篆刻では高芙蓉の高弟として活躍。

苗字は橋本氏、通称が貞元だったので橋本貞元と称された。名ははじめ湛また耽と称しのちに張、子琴は字、号は螙庵(とあん)、室号を御風楼・小園叟とした。本姓が葛城氏であったので中国風に修して葛子琴と名乗った。浪華の人。

代々医師の家系で、曽祖父の玄甫は細川忠興に医師として仕え、祖父の真相も同じく医師として摂津尼崎藩の4代藩主青山幸秀に仕えたが、青山氏が信濃飯山藩に移封するとき致仕して浪華に住んだ。父貞淳も医師となり浪華で開業する。子琴はこの父と母天野氏の間の長男として生まれるが、幼少の頃に両親ともに病没する。父の門弟碓井逸翁に養育され、菅甘谷の門下となり古文辞学を受け、その門人兄楽郊(えのらっこう)に詩文を学ぶ。同門に篠崎三島や岡公翼らがいる。20歳前後に上洛し医業を学び、高芙蓉の門下となり篆刻を学ぶ。逸翁に促されて帰坂。玉江橋畔に御風楼を構え、医と篆刻を生業とした。

明和元年(1764年)、詩文結社混沌詩社の創立メンバーとなり、京阪の文人墨客と交流する。とりわけ7歳年下の頼春水とは昵懇となり、春水は『在津紀事』の中で「子琴無ければ楽しまず」とさえ述べている。その詩才は天賦のもので詩韻や平仄などを自家薬籠中のものとし、詩作に滞ることは全くなかったという。擬唐詩に陥ることなく後の宋詩流行の魁となるような詩風だった。菅茶山はその『茶山先生行状』にて子琴の詩を絶賛している。

篆刻は芙蓉門の傑出した存在で芙蓉の正統を受け継ぎ、古色端麗な印風であった。同門の曽之唯がその『印籍考』に印賢と評し、大典顕常もその技を讚えている。門弟は京都に三雲仙嘯、浪華に赤松眉公などがいる。

笙や篳篥もよくし、文人らしく多芸であった。晩年は木村蒹葭堂に出入りし文雅な交わりを深めている。

天明4年4月に師の高芙蓉が江戸に没した僅か10日後、46歳の若さで病没。妻大城氏との間に2男3女がいたが、篠崎三島や田中鳴門が養育し、長男は医業を継いだ。墓所は大阪市北区天満東寺町の曹洞宗宝樹山栗東寺にある。諡は檜園詩老といったという。



【中島棕隠 略伝(Wikipediaより)】
中島 棕隠(なかじま そういん、安永9年(1779年)-安政2年6月28日(1855年8月10日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人・狂詩作家。名を規(まどか/き)・徳規(よしのり)、字を景寛(けいかん)、号を棕隠軒・棕隠・棕軒、通称は文吉、別号を画餅居士・因果居士・水流雲在楼主人など。狂詩作家としては安穴道人(あんけつどうじん)の号を用いた。諡号は文憲先生。

京都の出身。伊藤仁斎の門弟であった曽祖父中島浮山以来代々儒学者として知られた。儒学と漢詩を村瀬栲亭、和歌を伴蒿蹊に学ぶ。10代で「鴨東竹枝」を作って評価を得るが、家風に反すると批判されて家を飛び出し、10年にわたって各地を転々とした。文化11年(1814年)に京都に戻り、文政9年(1826年)には祇園の風景を描いた『鴨東四時雑詞』を出して、竹枝詞の流行を招き、詩名は頼山陽と匹敵した他、京都の狂詩においては銅脈先生と並ぶ大家として名を遺した。また、狂詩としては「太平新曲」「天保佳話」、戯作としては「都繁盛記」「箱枕」を発表した。

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