2013年7月3日水曜日

江戸漢詩選〈3〉女流―江馬細香・原采蘋・梁川紅蘭

「江戸漢詩選〈3〉女流―江馬細香・原采蘋・梁川紅蘭」By 福島理子。


江戸漢詩選 全5巻。
品切重版未定。古本での入手となります。
ご購入はこちらからどうぞ
http://astore.amazon.co.jp/sousyu-22/detail/4000920030

江馬細香・原采蘋・梁川紅蘭の略伝



【江馬細香 略伝(Wikipediaより)】
 江馬 細香(えま さいこう、天明7年4月4日(1787年5月20日) - 文久元年9月4日(1861年10月7日))は、江戸時代の女性漢詩人、画家。

美濃大垣藩の医師江馬蘭斎の長女として生まれる。本名は多保。少女の頃から漢詩・南画に才能を示し、絵を玉潾・浦上春琴に、漢詩を頼山陽に師事する。湘夢・箕山と号すが、字の細香で知られ、同郷の梁川紅蘭と併称された。頼山陽の愛人であったことでも知られる。



【原采蘋 略伝(Wikipediaより)】
 原 采蘋(はら さいひん、寛政10年(1798年) - 安政6年10月1日(1859年10月26日))は、江戸時代後期の女流詩人。名は猷(みち)。采蘋は号で、他に霞窓などを名乗る。江馬細香・梁川紅蘭らとならぶ、江戸後期の女性漢詩人の代表的人物。男装の女流詩人として知られる。

寛政10年(1798年)筑前の秋月藩に仕える父・儒学者原古処と母・ゆきの娘として生まれる。兄と弟が病弱だったため、父から期待され、漢文・詩・書道について教えを受けた。古処は江戸詰め勤務の際も娘を同行させたため、采蘋は少女時代から父に従って各地を旅し、詩を読み、各地の文人墨客と交流した。文政10年(1827年)父が死亡すると、父の遺稿を出版すべく、資金集めや出版のつてを得るため、単身で各地を遊歴し、文人と交流した。当時、女性が単身で旅行することは制度上も安全上も困難だったため、男装・帯刀して行動した。

地元の九州一円のみならず、西国や京都・大坂はもちろん東は江戸・房総半島まで足を伸ばしており、その間各地の高名な詩人と交流した。彼女と詩文を交換した詩人・学者として菅茶山・頼山陽・梁川星巌・佐藤一斎・松崎慊堂らがいる。山陽の愛人・江馬細香や星巌の妻・紅蘭もまた、高名な女性詩人であった。

男装のまま各地を旅し、生涯独身を通した。安政6年(1859年)、長州藩の萩へ土屋蕭海を訪ねたが、同地で病を得て客死。享年62。



【梁川紅蘭 略伝(Wikipediaより)】
 梁川 紅蘭(やながわ こうらん、文化元年3月15日(1804年4月24日) - 明治12年(1879年)3月29日)は、江戸時代後期から明治時代初期の女流漢詩人である。名は「景」または「景婉」、後に、名を「芝香」、字を「玉書」「月華」「紅鸞」とも称していた。紅蘭は号。姓を「張」「張氏」とし、「張 紅蘭」「張氏 紅蘭」とも称していた。

夫は梁川星巌であり、星巌とはまた従兄妹の関係である。

美濃国安八郡曽根村(現在の岐阜県大垣市曽根町)の郷士、稲津長好の次女として生まれる。8才のころ曽根村の華渓寺で句を学び、14才で星巌が開いた塾「梨花村草舎」で漢詩を学ぶ。

文政3年(1820年)に星巌と結婚。ところが結婚後すぐに星巌は、「留守中に裁縫をすること、三体詩を暗誦すること」を命じて旅に出てしまう。帰ってきたのはそれから三年後であり、紅蘭は、命ぜられた三体詩の暗誦をやってのけたばかりでなく、一首の詩を詠んでいる。これ以降、星巌は紅蘭とともに全国を周遊することとなる。

安政5年(1858年)9月2日に星巌が病死した直後の9月8日、安政の大獄で捕らえられる。これは、安政の大獄の捕縛対象者であった星巌がその直前(大量逮捕開始の3日前といわれる)にコレラにより死亡したため、その身代わりとして捕らえられたという。尋問を受けるが、翌安政6年(1859年)2月16日に釈放された。一説では捕らえられる前に星巌と交流のあった人物(吉田松陰、橋本左内など)との手紙などの書類を焼却していたという。

0 件のコメント:

コメントを投稿