2012年5月15日火曜日

インターネット時代の漢詩の志

最近では,漢詩のブログや,このFacebook,Twitterなどもあり,ネット検索で「漢詩」とすれば,様々なものが検索結果として現れる。

そうした各サイトを見ていて思うこと,いや気になることが一つある。

漢詩を志す人は平仄や詩語の意味,律詩を作ろうなどという人は対句の吟味などなど,いわゆる「規約」に則って作詩したり,あるいは自分のサイトで鑑賞できるようにしてある。

これはとても有り難いことなのだが,その表現手法にホームページを作成しようが,このFacebookを使用しようが,技術として「HTTP」,「URL」,「HTML」の基礎技術の上での「規約」に則って利用しているはずである。

ところが,実際には某有名サイトですら,まともにその「規約」を無視している。あるいは,完全に外注に出し,「出版社化」している個人もいる。

ブログやFacebookも便利だし,手軽に始められるというメリットがある。これは「漢詩」でも同じで初学者向けの入門編から始まり,だんだんと勉強して詩語表にない詩語を考えたり,対句を研究したりして研鑽を積んで行く。

ところがブログやFacebookで終わり,肝心の「規約」はブログまかせ,Facebookまかせのみというのは,どうなのだろう。

あれほど「漢詩」そのものにはある意味「うるさい」ぐらいの人達(私も過去に批判された経験がありますが)のサイトを見ると,その内容はでたらめ以外の何者でもなかった。

これは「漢詩を志す」と本当の意味で言えるのだろうか。
確かに漢詩の上手い下手ということはあるだとう。上手いから志があるのだろうか?下手だから志が低いのだろうか?

「漢詩を志す」ことを通して,いったい何を「志」と呼んでいるのだろうか?

多くのサイトを見るにつけ最近は「技術」を「技術」のままで終わらせてしまう日本。典型的な例として「技術」を「芸術」にまで昇華させているAppleとは大きく異なる点だ。

漢詩のサイトは増えたけど,「志」の復興という意味では,いかがなものなのだろう。

最近気になっていたことなので,まとまりのない文章になってしまったが,インターネットを生活から切り離すことができない現代ならば,真正面から,その「規約」にも取り組んで行きたいと想いを新たにした。