2013年6月26日水曜日

江戸詩人選集〈第10巻〉成島柳北・大沼枕山

「江戸詩人選集〈第10巻〉成島柳北・大沼枕山」By 日野龍夫。


江戸詩人選集 全10巻。
品切重版未定。古本での入手となります。
ご購入はこちらからどうぞ。


http://astore.amazon.co.jp/sousyu-22/detail/4000916009

【岩波書店 紹介文より】
外国奉行など幕府の要職を歴任し,維新後は言論界で活躍した柳北.下谷吟社を興して,幕末江戸詩壇の中心となった枕山.立場はちがったが,ともに幕末明治の激動期を風流の心を抱いて生きた.幕府瓦解に伴う価値観の変化に処する詩人の心中の叫びが聞こえる.身分も年齢も異なる2人の高雅な交わりも窺え,興趣の尽きぬ1巻.

成島柳北・大沼枕山の略伝


【成島柳北 略伝(Wikipediaより)】
成島 柳北 (なるしま りゅうほく、1837年3月22日(天保8年2月16日) - 1884年(明治17年)11月30日)は、江戸時代末期(幕末)の江戸幕府・将軍侍講、奥儒者、文学者、ジャーナリスト。明治時代以降はジャーナリストとしても活躍。また、姪孫に俳優の森繁久彌がいる事でも著名。

武蔵国浅草御廐河岸(現・東京都台東区蔵前2丁目)の松本家の3男として生まれた。幼名:甲子麿(こしまろ)→甲子太郎(こしたろう)→惟弘(これひろ)、弘。のちに代々奥儒者の家柄である成島家へと養子に出され、第7代目奥儒者・成島稼堂の養子となり、成島姓となる。そして、養父の跡を継ぎ、第8代目奥儒者と相成り、成島柳北と名乗るようになる。

成島家は19世紀前半から『徳川実紀』、『続徳川実紀』、『後鑑』などの編纂を続けており、柳北も長じてこれに従った。徳川家定、家茂に侍講するが、献策が採用されないため狂歌で批判し、解職される。この際、洋学を学ぶ。また、慶応年間に騎兵頭、外国奉行(3千石.従五位下.大隅守)、会計副総裁等を歴任。

明治維新後、仔細あって平民籍となるが、東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。

欧州では岩倉具視、木戸孝允らの知遇を得、特に親交のあった木戸からは帰国後、文部卿の就任を要請されたが受けなかった。また柳北は欧州視察の際に共済制度を見聞し、帰国後にそれを安田善次郎に伝え安田と共に日本最初の生命保険会社「共済五百名社」(現「明治安田生命」)を設立。(安田は、向島の柳北の家を訪ねたときは出された座布団を決して敷こうとはしなかった程、柳北を尊敬慕っていた。) 後には大槻磐渓の紹介によって、1874年(明治7年)に『朝野新聞』を創刊、初代社長に就任。言論取締法の「讒謗律」や「新聞紙条例」を批判した。自由民権運動の中では、社論は大隈重信の改進党に近く、大隈の設立した早稲田大学の初代の議員 (理事に相当)にも就任している。また文芸雑誌『花月新誌』を創刊し文芸界でも活躍。商法会議所(現商工会議所)の設立、墨田川河畔の桜植樹等にも尽力、前米大統領のグラントの接遇委員も勤めた。1884年(明治17年)11月30日、胸の病のため、48歳(満47歳)の若さで死去。



【大沼枕山 略伝(Wikipediaより)】
 大沼枕山(おおぬま ちんざん、文化15年3月19日(1818年4月24日) - 明治24年(1891年)10月1日)は江戸時代後期から明治前期の漢詩人。名は厚、字は子寿、通称は捨吉、号は水竹居、臺領、枕山。野にあって詩人として生き、最後まで髷(まげ)姿を通した。

墓は東京都台東区谷中の瑞輪寺にある。永井荷風は縁者にあたる枕山を「下谷叢話」でその人となりを愛惜こめて伝えている。

0 件のコメント:

コメントを投稿