2013年6月29日土曜日

江戸漢詩選〈1〉文人―亀田鵬斎・田能村竹田・仁科白谷・亀井南冥

岩波書店「江戸漢詩選〈1〉文人―亀田鵬斎・田能村竹田・仁科白谷・亀井南冥」


江戸漢詩選 全5巻。
品切重版未定。古本での入手となります。
ご購入はこちらからどうぞ。
http://astore.amazon.co.jp/sousyu-22/detail/4000920014

【岩波書店の紹介文より】
貧乏暮らしの中で,酒をこよなく愛し,洒脱な絵を描いてたずきとする.俗世を睥睨し,個性と好みに忠実に生きようとして,世に冷遇された文人たち.彼らの痛快で抒情性に富んだ詩を初めて注解する.

【亀田鵬斎・田能村竹田・仁科白谷・亀井南冥の略伝】



【亀田鵬斎 略伝(Wikipediaより)】
亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい、宝暦2年9月15日(1752年10月21日) - 文政9年3月9日(1826年4月15日))は、江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。江戸神田生れ(上野国邑楽郡富永村上五箇村生まれの異説あり)。

鵬斎は号。名を翼、後に長興に改名。略して興(おこる)。字は国南、公龍、穉龍(ちりゅう)、士龍、士雲、公芸。幼名を彌吉、通称 文左衛門。

父は萬右衛門といい、上野国邑楽郡富永村上五箇村(現在の群馬県邑楽郡千代田町上五箇)の出身で日本橋横山町の鼈甲商長門屋の通い番頭であったが、鵬斎が7歳のころにこの長門屋を継いだ。母の秀は、鵬斎を生んで僅か9ヵ月後に歿した。

鵬斎は6歳にして三井親和(みついしんな)より書の手ほどきを受け、町内の飯塚肥山について素読を習った。14歳の時、井上金峨に入門。才能は弟子の中でも群を抜き、金峨を驚嘆させている。この頃の同門 山本北山とは終生の友となる。23歳で私塾を開き経学や書などを教え、 躋寿館においても教鞭を執った。赤坂日枝神社、駿河台、本所横川出村などに居を構え、享和元年(1801年)50歳のとき下谷金杉に移り住んだ。妻佐慧との間に数人の子を生んだが皆早世し、亀田綾瀬(りょうらい)のみ生存し、のちに儒学者・書家となる。亀田鴬谷(おうこく)は孫にあたる。

鵬斎は豪放磊落な性質で、その学問は甚だ見識が高く、その私塾(乾々堂→育英堂→楽群堂)には多くの旗本や御家人の子弟などが入門した。彼の学問は折衷学派に属し、すべての規範は己の中にあり、己を唯一の基準として善悪を判断せよとするものだった。従って、社会的な権威をすべて否定的に捉えていた。

松平定信が老中となり、寛政の改革が始まると幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥する「寛政異学の禁」が発布される。山本北山、冢田大峯、豊島豊洲、市川鶴鳴とともに「異学の五鬼」とされてしまい、千人以上いたといわれる門下生のほとんどを失った。その後、酒に溺れ貧困に窮するも庶民から「金杉の酔先生」と親しまれた。塾を閉じ50歳頃より各地を旅し、多くの文人や粋人らと交流する。

享和2年(1802年)に谷文晁、酒井抱一らとともに常陸国(現 茨城県龍ケ崎市)を旅する。この後、この3人は「下谷の三幅対」と呼ばれ、生涯の友となった。

文化5年、妻佐慧歿す。その悲しみを紛らわすためか、翌年日光を訪れそのまま信州から越後、さらに佐渡を旅した。この間、出雲崎にて良寛和尚と運命的な出会いがあった。3年にわたる旅費の多くは越後商人がスポンサーとして賄った。60歳で江戸に戻るとその書は大いに人気を博し、人々は競って揮毫を求めた。一日の潤筆料が5両を超えたという。この頃、酒井抱一が近所に転居して、鵬斎の生活の手助けをしはじめる。

鵬斎の書は現代欧米収集家から「フライング・ダンス」と形容されるが、空中に飛翔し飛び回るような独特な書法で知られる。「鵬斎は越後がえりで字がくねり」という川柳が残されているが、良寛より懐素に大きく影響を受けた。

鵬斎は心根の優しい人柄でも知られ、浅間山大噴火(天明3年)による難民を救済するため、すべての蔵書を売り払いそれに充てたという。また赤穂浪士の忠義に感じ、私財を投じて高輪の泉岳寺に記念碑を建てている。定宿としていた浦和の宿屋の窮状を救うため、百両を気前よく提供したという逸話も残っている。

晩年、中風を病み半身不随となるが書と詩作を続けた。享年75。今戸称福寺に葬られる。



【田能村竹田 略伝(Wikipediaより)】
田能村竹田(たのむら ちくでん、安永6年6月10日(1777年7月14日) - 天保6年8月29日(1835年10月20日))は、江戸時代後期の南画(文人画)家。旅を好み日本各地を遊歴。詩文を得意とし画論『山中人饒舌』などを著した。

幼名は磯吉、後に玄乗、行蔵。名は孝憲。字は君彜(くんい)。通称は竹蔵。別号は九畳仙史・竹田老圃・竹田邨民・秋心・随縁居士・九峯無戒衲子・紅荳詞人・田舎児・ 藍水狂客・三我主人・西野小隠・秋声館主人など。更に斎号(居室の名)に竹田荘・補拙廬・雪月書堂・対翠書楼など多数。

豊後国直入郡竹田村(今の竹田市)の岡藩儒医田能村碩庵の次男として生まれる。母は水島氏。禄高12人扶持であったがこれは武士の中ではかなり低く、更に藩の財政難で実際はこの6割程度しか俸禄を得られなかった。この為竹田は生涯にわたり生活資金の工面に苦労させられることになる。6歳で素読を始め、11歳で藩校由学館で入学。成績は極めて優秀だった。その詩才を見抜いた師の唐橋君山は詩文結社竹田社・米船社の同人に迎えた。翌年、宿痾となった耳病と眼疾を発病する。

寛政6年(1794年)、18歳のときに母と兄を亡くし、翌年田能村家の嫡男となり藩主にまみえた。20歳頃より淵上旭江門の地元画家に画を学び、君山の紹介で江戸の谷文晁に現在でいう通信教育まで受けている。22歳のとき由学館に儒員として出仕し最終的には頭取に出立している。医業を辞めて学問に専心することとなり、幕命により『豊後国志』の編纂に携わった。

享和元年(1801年)、編纂事業準備のため江戸に下向。その途次大坂の木村蒹葭堂を訪ね、江戸ではかねてより文通のあった谷文晁を訪問。文化2年(1805年)眼病の治療と儒学を学ぶため、途中博多、長崎、熊本、小倉、下関に立ち寄り京都へ約2年間遊学。その間村瀬栲亭に入門。大坂では浦上玉堂や岡田米山人・上田秋成らと知遇を得る。文化8年(1811年)、生玉の持明院で頼山陽と邂逅、以来親交を深める。またこの年秋には紀州にて野呂介石にも画法を指南されている。

文化8年は専売制度に反対して藩内に農民一揆が発生。竹田は農民救済・学問振興を含めた藩政改革を要求する建言書を藩に2度提出したが受け入れられず、病気療養の必要もあり文化9年(1812年)辞表を提出。翌年致仕は認められ、37歳の若さで隠居となるが、休息料として名目上2人扶持の俸給を与えられており、周囲の竹田への信頼を物語る。それ以後豊後と京阪との間を行き来しながら、頼山陽をはじめ岡田半江・浦上春琴・菅茶山・青木木米などの文人たちと交流を持つ。文政9年(1825年)、50歳で長崎に遊歴。来舶清人や長崎派の画家から中国絵画の技法を学ぶ。天保6年夏、大坂の藩邸で亡くなった。享年59。画の弟子に高橋草坪や帆足杏雨・田能村直入(養継子)などがいる。

竹田は筆まめで多くの著作を著している。とりわけ『山中人饒舌』は日本の文人画史・画論として当時から広く読まれ、『屠赤瑣瑣録』では文事や文人趣味などを知る上での資料価値が高い。また『竹田荘師友画録』は師友となった104名の人物評伝を掲載している。

竹田は元末四大家や宋代の米友仁を敬慕。多くの人物との交流から様々な画風を学んだことで山水図・人物図・花鳥図とその画域を広げ、写実を通して文人画のエッセンスともいうべき写意を表現した。晩年は繊細で味わい深い画境に到達し旺盛に創作をした。

現在、竹田の作品は、出光美術館に約200点、大分市美術館に45点、竹田市歴史資料館に10点をはじめ、日本各地の24カ所の美術館・博物館に所蔵されている。



【仁科白谷 略伝(コトバンクより)】
仁科白谷(にしな-はくこく)、1791-1845、江戸時代後期の儒者,漢詩人。

寛政3年生まれ。仁科琴浦(きんぽ)の次男。江戸で亀田鵬斎(ほうさい)にまなぶ。のち京都にすみ,猪飼(いかい)敬所,摩島松南らと交遊。詩人として知られた。弘化(こうか)2年5月29日死去。55歳。備前(岡山県)出身。名は幹。字(あざな)は礼宗。通称は源蔵。別号に熊峰。著作に「凌雲集」「白谷詩文鈔」など。



【亀井南冥 略伝(Wikipediaより)】
亀井 南冥(かめい なんめい、寛保3年8月25日(1743年10月12日) - 文化11年3月2日(1814年4月21日))は、江戸時代の儒学者で、医者、教育者、漢詩人。筑前国姪浜(現在の福岡市)に生れる。諱は魯、字は道載、通称は主水、南冥はその号である。亀門学の祖。

筑前国早良郡姪浜村の村医亀井聴因の長男として生まれる。幼少より父のもとで学問に励み、青年にいたり、肥前蓮池の黄檗僧大潮元皓に師事し、更に都へ上って吉益東洞に師事したが、すぐに永富独嘯庵の門下に移る。永富は山脇東洋の高弟で、山県周南に学んだ人物である。よって、南冥は儒学者としては蘐園学派(古文辞学)に属し、医学では山脇東洋の流れを汲むことになる。永富の門下生時代の南冥は、師の著作『漫遊雑記』に序文を提供する程の秀才として名を馳せている。また、小石元俊(蘭学者)・小田享叔(儒学者)とともに「独嘯庵門下の三傑」と呼ばれたという。

帰郷後は父と共に博多唐人町に開業する傍らで宝暦12年(1762年)には私塾を開き、多くの門人を集めた。一方で、宝暦・明和期にはたびたび長崎を訪問して時代の新風に触れ、安永期の京坂に遊んでは大坂の混沌詩社にも出入りしている。安永7年(1778年)、福岡藩主黒田治之は南冥を儒医として採用し、天明4年(1784年)には治之の遺言(治之は1781年8月に急死している)で、南冥は新設された二つの学問所の一方である甘棠館の祭酒(学長)に就任する。なお、この甘棠館が完成した前後に有名な金印が発見されている。この発見に対して南冥は素早く『後漢書』東夷伝を引用して金印の由来を説明し、次いで『金印弁』を著して金印についての研究を行った。もう一方の学問所である修猷館の学長に就任していた竹田定良(朱子学者)も『金印議』を著したが、内容は南冥の説明の域を大きく出ないもので、結果として南冥の名を高めた。また、南冥は金印発見の報と印文並びに鑑定書を全国の学者と知人に送っており、これをもとに上田秋成や藤貞幹なども独自に金印研究を行っている。

その後、寛政2年(1790年)に寛政異学の禁が出され、幕府の昌平坂学問所で朱子学以外の学問が禁止されると、各藩にも影響が出て、蘐園学派に属する南冥の立場は危うくなった。修猷館派の攻撃を受けて寛政4年(1792年)ついに失脚し、南冥は甘棠館祭酒を解任のうえ、蟄居禁足処分となる。寛政10年(1798年)には甘棠館が焼失し、それにともない甘棠館廃止。教官は解職され、生徒は全て竹田定良の修猷館に編入となる。失脚と学校の消滅に南冥は失意に沈むこととなるが、やがて息子の昭陽を中心に私塾として亀井塾が再開され、南冥もそこで指導にあたった。南冥・昭陽父子の下には九州にとどまらず日本各地から弟子が訪れ、多くの優れた人材が育った。文化11年(1814年)3月2日、自宅の失火により死去。伝えられるところでは猛火の中で端座して焚死したという。享年72。


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