2013年6月19日水曜日

江戸詩人選集〈第4巻〉菅茶山・六如

 「江戸詩人選集〈第4巻〉菅茶山・六如」、岩波書店。



江戸詩人選集 全10巻。
品切重版未定。古本での入手となります。

【岩波書店 紹介文より】
18世紀後半,漢詩は飛躍的な発展をみた.その頂点に立つのが六如と茶山である.天台宗の僧侶でありながら,豪放磊落な性格で,奇抜さに富んだ詩を多く作った六如,瀬戸内海の温和な風景を背景に,田園生活や触目の光景を詠んだ茶山.ともに生活に根ざしたところの思想・感情を詠出して余すところがない.



【菅茶山 略伝(Wikipediaより)】
菅茶山(かん ちゃざん(さざん)、延享5年2月2日(1748年2月29日)- 文政10年8月13日(1827年10月3日))は、江戸時代後期の儒学者・漢詩人。諱は晋帥(ときのり)。字は礼卿。通称は太仲・太中。幼名は喜太郎、百助。備後国安那郡川北村(現広島県福山市神辺町)の出身。

農業・菅波久助の長子として生まれる。茶山が生まれ育った神辺は、山陽道の宿場町として栄えていたが、賭け事や飲酒などで荒れていた。学問を広めることで町を良くしようと考えた茶山は、京都の那波魯堂に朱子学を学び、和田東郭に古医方を学んだ。京都遊学中には高葛陂の私塾にも通い、与謝蕪村や大典顕常などと邂逅した。

故郷に帰り、1781年(天明元年)頃、神辺(現在の福山市)に私塾黄葉夕陽村舎(こうようせきようそんしゃ)を開いた。皆が平等に教育を受けることで、貧富によって差別されない社会を作ろうとした。

塾は1796年(寛政8年)には福山藩の郷学として認可され廉塾と名が改められた。茶山は1801年(享和元年)から福山藩の儒官としての知遇を受け、藩校弘道館にも出講した。化政文化期の代表的な詩人として全国的にも知られ、山陽道を往来する文人の多くは廉塾を訪ねたという。詩集『黄葉夕陽村舎詩』が刷られている。(復刻版は葦陽文化研究会編、児島書店、1981年(昭和56年))

廉塾の門人には、頼山陽・北条霞亭など多数。墓所は神辺網付谷にある。

「廉塾ならびに菅茶山旧宅」は1953年(昭和28年)に国の特別史跡に指定された。


【六如 略伝(Wikipediaより)】
慈周(じしゅう、享保19年(1734年)- 享和元年3月16日(1801年4月28日))は、江戸時代中期の天台宗の僧侶、多くの漢詩を残している。父は医者苗村介洞。字は六如。号は白楼・無着庵。近江国の出身。

1744年(延享元年)に出家。幼い頃から学問を好み、近江彦根の野村東皐(のむらとうこう)に詩文を学び、のち江戸に出て、宮瀬龍門に師事した。

江戸明静院に住して井上金峨と交流している。後年京都・江戸・近江国柏原などに住しながら様々な人々と交流した。詩風の革新に務め、近世における詩壇の宗匠と評された。

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