詩 學 逢 原 卷之上
南海 祇阮瑜著
金龍 釋敬雄校
金龍 釋敬雄校
詩語常語取義(一)
凡そ詩を學ばんと欲する者、先ず宜く詩の原を知るべし。詩の原とは、元來詩は心の聲にて、心の字には非ず。六經の教それぞれに立る所各別 なり。易は卜筮の書なり。書は誥命の書なり。禮は儀式の書なり。春秋は記録なり。詩は歌謠なり。皆これを借て教を設く故、詩は聖人、昔の音樂の唱歌、人之 戒となり、教となるべき者を、三百餘篇選み、後世に示されたり。然れば、詩は元と聲の教にて、外の書の如く、あらはに義理を述て、人に異見する如くなる者 には非ず。其聲を聞て、人自然に感通して、惡心止み善心發す。是を「思無レ邪」と稱し、周南召南を學べと示されたる。皆聲音の上の 事なり。宋儒これを知らず、理窟を以て詩を説くは大に誤なり。然るに周の末に至りて、音樂の道亡びて、其節拍子、はやし方、共に絶へ亡びぬれば、昔の如く 音聲を聞て、感ずること無といへども、姑く吟詠讀誦して、心に感通する所、今に遺(のこ)れるのみ。大序に所謂「動二天地一、感二鬼神一(天地を動し、鬼神を感ず)」と云へるは、昔の音樂律呂に協へて、歌ひたる時のことなり。後世只吟詠したるばかりにては、さほどの感はあるまじ。若今新に作り出すに、誠あらば、歌はずとも、はやさずとも、天も鬼神も感通すべし。
右の如く昔の音樂の教、世に亡びたるを以て、孔子の時代には、古詩をとくと讀習ひ、よく誦て、自ら義理をも明め、我身の戒とし、人にも教へ、人に心底を示し、義理を説く資(たすけ)となせり。故に孔子曰く「誦二詩三百一(詩三百を誦す)」と云ひ、「可二與言(一レ)詩(与に詩を言うべし)」ともいへり。其法自ら作出すに及ばず。三百篇に載たる詩又は逸詩にても、或は二句三句四句六句、其の入るべき所を抜出し、これを賦す。是を「斷レ章取レ義(章を断ち、義を取る)」 と名付けて、春秋の代の、列國士大夫、會盟朝聘に臨みて、己が心底を通ずる爲め、或は祝賀を述、或は喜をうつし、或は憂をうつし、或は問答の辭を資くるこ と縱にも横にも自由自在に取扱ふこと、外の書にてはならざることなれども、詩は元より理を説き、義を辨ずる道具にあらず。惟人情を寫したる唱歌故、人これ を聞て、其感ずるに隨ひ、いかやうにも道理の付くこと、詩に限りて、不可思議の妙用自ら具る。是孔孟家、詩を取扱ふ一種の祕學なり。其取扱ひやうの手段 は、語孟左氏禮記等に委く出でたり。後世詩を學ぶ人、この取扱を忘れ、態々自分に作り出して、其情を抒ぶ。其始屈原か離騒より起り、漢魏六朝に及びて益々 盛なり。其故いかにとなれば、上代は人心質樸にて、詩義にもさとく通ぜし故、右のとほり斷章取義にて、己が情も通し、人も能徹せり。後世さやうばかりにて は、事たらぬやうに覺え、人も慥取こと薄き故、自新咏を作り出して、情を十分に抒(のべ)たり。それより次第に盛になりて、六朝に至て、專巧拙の品も出來、體裁も多くわかれ、後は謝霊運、鮑照、庾信が輩、經史中の故事熟字を引用ひ、遂には學術材藝を爭ふ業となりたり。
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