嘗は、なむる、こゝろむとよむ字なり、かつてとよむとき、曾なりと註す、か子て、かねが子、そふいふ覺へあると云意なり、常と同しき所あり、曾は詞之舒也、又經也、嘗也、乃也、則也、品字箋曾字下に云、又不レ料之辭、大雅、曾是掊克、曾是在レ位、又反辭 大雅、曾不レ知二其玷一、論語、曾謂二泰山一、又何曾は、俗語何嘗と同し、これらの多義あり、みなかつてとよめども、意義各々別あり、嘗と同音になり、全く同じき所あり、乃と則とは、かつてすなはちとよめども、助語のうへ、深義なし、ことばのてにはになる、詞ののぶると云も、この義にちかし、經といふは、そふあることを、へるなり、不レ料のことば、さふあるまいと、思ふたにと云こと、反辭は、さふあるはづが、さふなきなり、未レ曾と、下より返らざれば、俗語なり、かたから、とんとゝ、みてよくあたる所あり、各その文勢によりて考へしるべし、
「嘗」と「曾」の文字、「かつて」と読む場合に意味上の違いはないようです。ただし、『又何曾は、俗語何嘗と同し』とあるように「かつて」を意味する文字としての「嘗」は俗な文字で、「雅」な文字としては「曾」を用いることが賢明なようです。
実際、三体詩の実接では「嘗」の用法を見ることはできませんでした。また、唐詩の絶句でも、「嘗」を用いた例は極々少数でした。
では、次の記事で、また、お会いしましょう。
失礼します。
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