2019年3月24日日曜日

詩料について

今回は「詩料」に関して東洋文芸季刊誌『言永』第四輯を参考に学習します。


詩料について

先づ詩料、すなはち何を詩に詠ずるかの問題である。みづから興趣を覚えたことならば何でも詩料になりさうであるが、必ずしもさうはいかない。初学の人はよく自分で面白く感じたことを、何でもかまはず詩にしようとして文字を並べることがある。その結果は他人には一読して何のことかやらわからぬ独り合点の詩が出来あがる。

『言永 第四輯』より

以上のように、詩料について述べられていて、さらに続いて、漢詩に向く詩料もあれば、そうでないものもあったり、漢詩に向いても、それが七言絶句向きもあれば、五言絶句向きもあったりと、『詩料の選択を誤まらぬことが肝心である』と述べられている。

こうした詩料の選択をどうすればよいかとなると、なかなか難しく『これは理論として説くことは至難であるが、いはゆる「冷暖自知」で修練の間に自得できるものである。試みて無理があると気づいたならば、その詩料を潔く捨てるだけの勇気が、その自得を助けるであらう。』と述べられていて、二三の例が示してある。

しかし、これだけでは私たち作詩初学者は、いつまでも作詩することができないと思います。そこで、一つの手がかりとして「課題詩」の利用を推奨します。

課題詩について

ここでは、何を詩にするかという「詩料」を「詩題」と解釈して学習しています。次の例は、『山陽風雅』に掲載された課題詩です。

『山陽風雅 第三十二巻十一月集』より 「昭和六十一年 山陽吟社 課題」

七言絶句を、あるいは七文字一句のみでも、こうした課題を利用して興趣を養い、作詩に慣れることが肝心のように思います。

ただ、漢詩では、「詩と志なり」という観点から、こうした練習の作品ばかりだと好ましく思われない方もいっらしゃいます。私自身も習作ばかり「時事偶感」のような詩がないのは「志がない」と批判されたこともあります。

しかし、私自身は、四季折々の興趣を題材とする課題詩は作詩という観点からだけではなく、芸術として十分に成立する作品を作ることは可能だと信じています。ただ、その巧拙に差が生ずることは、課題詩であろうがなかろうが当然でてきますが、それ自体は「志」の「有無」とは別物だと思います。

清新詩題について


『清新詩題』という古書がありますが、その内容は詩題を四季と雑から構成されたものです。


そのまま詩題として利用できるものから、二字の題を組み合わせて新しく詩題も作れるようになっています。


こうした詩題を利用して作詩に慣れることが「冷暖自知」の修練に繋がると思います。また、似たような詩題の古人の作品や、他の人の投稿詩なども読むことも必要で、必然的に「多読」にも繋がるでしょう。

前回の「七言絶句の作法」と今回の詩題(詩料)を使って、ぜひ一詩、あるいは一句でも作詩に挑戦して見てください。


では、次の記事で、また、お会いしましょう。
失礼します。

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