2017年5月9日火曜日

呂山草堂詩話より

今回は『呂山草堂詩話 第三輯』の中から一部分を抄出し、学習の方法について考えてみます。

『作詩問答』より抄出

解釈書がある前に教科書(テキスト)があるのが道理である。教科書を読んでわからぬから解釈鑑賞の本を読んでわかろうとするのである。今人は教科書を持たず、解釈書だけしか持っていないで、解釈書を、しかも解釈だけを読もうとする。それでは本当はわからず仕舞で、後に何も残らぬ。どうしても解釈のない本文だけとか、或いは漢文だけの注しかないテキストがあって、それを読んでわからぬ点だけを解釈書で調べて、一応わかってから後に細部にわたった解説や語釈も見て行くようにするとよいと思う。そういうテキストが得られぬときは、ノートに本文を写して後、訓点を加え、意の通じない語やすじを記入しておくというやり方が出来る。

私にとっての箴言です。わからない所を調べるためには、辞書を引くのが一番なのですが、それは教科書があることが前提だと思います。

ところが、教科書代わりに解釈書を読んでいるわけですから、わからない所も解釈書に記述されているから、さらに辞書まで調べるという行為に到りません。

しかも解釈書に書かれている内容の検討もせず(最も検討するような力量もないのですが)、書かれていることを鵜呑みにしている始末です。また、注に何々と書かれていると、その「注」の原文を見ることもなく、何となく読み進んでしまう。

これでは、独習(学習)になるはずがありません。

私がまとめている

漢詩作法入門講座(URL: http://kansi.info/kansyou/santaisi701.html)

の三体詩なども読み、平仄、語釈などは掲載していますが、どれも解釈書が出発地点で、辞書を引いてはいますが、原文が出発地点とはなっていません。

反省、反省、反省、只々厚顔無恥の極みであります。

そこで、再掲します。

解釈書がある前に教科書(テキスト)があるのが道理である。教科書を読んでわからぬから解釈鑑賞の本を読んでわかろうとするのである。今人は教科書を持たず、解釈書だけしか持っていないで、解釈書を、しかも解釈だけを読もうとする。それでは本当はわからず仕舞で、後に何も残らぬ。どうしても解釈のない本文だけとか、或いは漢文だけの注しかないテキストがあって、それを読んでわからぬ点だけを解釈書で調べて、一応わかってから後に細部にわたった解説や語釈も見て行くようにするとよいと思う。そういうテキストが得られぬときは、ノートに本文を写して後、訓点を加え、意の通じない語やすじを記入しておくというやり方が出来る。

私自身も、もう一度「教科書」を出発地点として勉強し直したいと思います。幸いにも現代のインターネット技術の進歩により、教科書としての古書もネット古本屋で注文することもでき、場合によってはオークションなどで破格の値段で入手することも可能です。さらには国立国会図書館のデジタルライブラリや有名大学の公開資料から、その画像を入手することも可能となっています。

漢詩に限らず、漢文の場合も、ぜひ、解釈書の前の教科書を出発点としてみては如何でしょうか。


今回のキーワード

呂山草堂詩話,太刀掛呂山,漢詩,作詩


今回の独習で使用したテキスト

『呂山草堂詩話 第三輯』太刀掛呂山(1993年)呂山詩書刊行会


今回の独習で参考にしたサイト

『漢詩作法入門講座』(URL:http://kansi.info/
『国立国会図書館デジタルコレクション』(URL:http://dl.ndl.go.jp/

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