2012年6月18日月曜日

漢詩といへるに就きて(【少年詩話】「野口 寧斎著」より)

普段は、「淡窓詩話」を取り上げていますが、今日は、『少年詩話(野口 寧斎著述)』の中に興味深い論述があったので紹介したいと思います。

「漢詩」とは、「漢民族の詩」である、とは中国における、ある種の常識でしょう。それも一理ありますが、私が説明しているものは、それとは趣を少し異にするものと思われます。先人の作として「杜甫」や「李白」などの、現在の中国の詩人ももちろん読みますが、それ以上に「邦人」の漢詩を中心と取り扱っているつもりです。

それらの詩の中には現代の「中国」では、通じないものも多々あるそうです。現在、中国においても私が思う「漢詩」は、「中国古典詩」に分類されるものであり、そうしたこともある種関係があるかもしれません。

また、歴史も大きく違いますし、季節、地理も大きな違いです。私のような井の中の蛙には、大陸の広さは検討がつきません。ただ、それらを理由が漢詩を作らない理由にはなりませんし、今や「漢詩」という熟語は「日本的」な文学の一分野を担う存在になっているものとも思われるからです。

では、前置きはこれくらいにして、「少年詩話」の原文を紹介します。



漢詩といへるに就きて

詩は詩なり。大古に於て咨嗟咏嘆(しさえいたん)せるものより、五言七言の規律整然たる今日に至るまで、別に何等の冠詞を要せざるなり、さるに此頃に至りて、漢詩といへる名目出て來りて、いつとは無しに文壇に普遍するに至れり。

詩は詩なり、特に之を漠詩と名くるものは、何物に對して之を別ちたるものなるや、我邦には自から歌有り、或は詩を名けて唐歌(からうた)と稱するに因み、歌をば大和歌と言ふもの有と雖、要するに歌は歌なり、強て之を國詩と稱し、詩を以て漢詩と名くっるが如き、まはり遠き名稱なかりしや當然なりといふべし。

泰西(たいせい)の文字を研覈(けんかく)するもの、其所謂ポエットなるものを見、譯(やく)して之を洋詩といひ、遂に之に對して漢詩の語を創(はじ)む、然れども、ポエットの形状性質の相類するによりて、之を洋詩と名けたればとて、支那文字の詩はいつも詩として其名前の本家たるを失はず、例へば英人にして詩を譯して支那ポエットといふものあらんに、それが爲に態々(わざわざ)自國の文學に冠するに英ポエットと言はずとも、萬々(ばんばん)差支(さしつかへ)無かるべしと思はる丶に非ずや。

或人はいへり、文に漢文有り、詩に漢詩有るも亦妨なかるべと、されど是も誤れり、文に漠文の名有りしは、我邦に和文有るが爲に之を分てるなり、同じ名目有りたればこそ和文漢文と相對峙したるなれ、我に歌有り、彼に詩有り、各其別つ所によりて一目瞭然たるもの有るに、殊更に漢宇の蛇足を加ふるは、是固より何等の必要を見ざるなり。

抑〻(そもそも)名は實の賓なり、諸子よ、余が何故に此の如く呶々(どど)するかを訝(いぶか)るると莫れ、聯か說有り、諸子よ、僻に失すと爲すが如き感情を去りて、余が述ぶる所を聞けよ。

漢は固と支那歴代中の一國なり、支那を稱するに唐を以てし明を以てするが如く、單に其時代によりて命名するが如きものなのならしめんには、尚ほ可なり、されど今の所謂漢なるものには、更に一の意味を具有せることをば知らざるべからず、そを何事ぞといふに、漢とは夷狄(いてき)が支那を稱するの語なると是なり。

稗海全書に據(よ)るに、今の四夷が中國を謂て漢と爲すものは、匈奴人が曾て中國人を謂て秦人と爲せると同じく、古くよりの言ひならはしにして之に至れるものなりといへり、思うに其最初に在りては、老人が東京と言はずして江戸と言ふが如き有様にて、口々に相傳たるものなりしらん。しかも相授け相受るの久しき、支那内地の人亦自ら漢人を以て居り、漢といふ字は、いつとはなしに歴代名稱の外、更に四夷こ對する支那の異名となり、從て一種尊重の意を帶ぶることとなり、胡漢といひ、蕃漢といふが如き熟語も亦生ずるに至れり、「蕃漢列旌旗」といひ、「蕃漢斷消息」といひ、又或は「胡兒角吠漢兒曲。漢人骨築胡人壘」といふが如き、皆純然たる中華の義を以て漢字に含有せしめたるなり、今日に在りて、滿洲は清祖勃興の地なるにも係はらず、尚ほ滿人漢人と稱ヘて相同じくせず、其状は内地人のアイヌに於けるが如く、暗に之を侮るもの有るは、亦たヾ漢の一字有るに因らずんばあらず。

池北偶談には謂く、元の時、契丹、高麗、女直、竹因歹、竹亦歹、朮里洞、歹竹温、渤海、八種の人を以て漢人となし、中國人を以て、南人と爲すと、簷曝雜記には謂く、元の初に遼金(りょうきん)を取れるや、遼金人を以て漢人と爲し、繼で南宋を取れるや、南宋人を以て南人と爲すと、両者各異有りと雖、元が北方北方胡羯の間に起れるが故に、其漢といヘる名前をば、故さらに北方に私し、以て自ら居りて人に衿(ほこ)らんと爲せるに過ぎず、亦以て漢字の如何なるものなるやを知るに足らんか。

巳に漢字にして此の如きの意昧を有すとせば、從來倭魂漢才と稱して自ら傷つけ居たるもの、今にして之を思へば長大息すべし、豈獨り物茂卿が甘じて東夷と書したるを咎むるのみならんや。

漢か漢か、夷狄の支那を稱するものなりとせば、邦人にして之をロにするは、死するも之を羞づるなるべし、所謂漢語漢字漢文漢學の如き、亦當さに之を改めて支那語とし支那學となすべし、而るを況んや詩に無用の贅疣(ぜいゆう)を冠らしむるに於てをや、余が少年諸子が漢詩の名目を稱ヘざらんことを望むもの、豈他意あらんや。

因にいふ、近人の新を好むや、一般の文學者を以て詩人と稱し、詩を廣義に解すれば小説戯曲何々何々までも皆詩なりといひ、甚しきに至りては、形式性質ともに歌の一躰ともいふべきものまでをも、名けて新躰詩といふ、詩といへる名目のそれ程調寳にせらる丶 は結構至極なれども、詩にして靈有らば、或は又其累せらる丶こと多きに苦笑せんのみ。