問 一句一聯の妙處は、古人の論を聞きて之を曉れり。篇法の妙に至りては、未だ窺ひ知ること能はず。願はくば其一端を聞かん。
孟浩然が五律、多くは一気呵成、斧鑿(フサク)の痕なし。其妙一篇に在り。字句を以て論ずべからず。「掛レ席幾千里」の詩の如き、是も妙なるものなり。然れども其妙處言を以て述べ難し。王維が「中歳頗好レ道」の詩(「終南別業」 中歳頗好レ道。晩家二南山陲一。興來毎獨往。勝事空自知。行到水窮處。坐看雲起時。偶然値二林叟一。談笑無二還期一。)も亦同じ。但五六の「行到水窮處。坐看雲起時。」の二句甚だ巧密にして、行て到るは第三句に照應し、坐して看るは第四句に照應す。天然の中人工を雜へたるものなり。孟が妙處は學び難く、王が妙處は學ぶべし。
崔顥が「黄鶴樓」の詩(「黄鶴樓」 昔人已乘二黄鶴一去。此地空餘黄鶴樓。黄鶴一去不二復返一。白雲千載空悠々。晴川歴々漢陽樹。芳草萋々鸚鵡洲。日暮鄕關何處是。煙波江上使二人愁一。)、唐人七律の第一と云ふ説あり。是亦其妙一篇に在り。字句を以て論ずべからず。專ら風神以て勝れるものなり。
絶句は大略皆風神を宗とす。律に至りては然らず。然れども盛唐の詩は、一氣混成したるもの多し。李白孟浩然が如き是なり。其律詩を熟覧せば、自ら篇法の妙、字句に與らざることを悟るべし。蘇東坡の七律、風神を主として、古調に近きもの多し。「我行日夜向二江海一」(「出二穎口一初見二淮山一是日至二壽州一」 我行日夜向二江海一。楓葉蘆花秋興長。長淮忽迷天遠近。青山久與レ船低昂。壽州已見白石塔。短棹未レ転黄茆岡。波平風軟望不レ到。故人久立煙蒼茫。)、「安石榴花開最遲」(「首夏官舍即事」 安石榴花開最遲。絳裙深樹出二幽菲一。吾廬想見無レ限好。客子倦遊胡不レ歸。坐上一樽雖レ得レ滿。古來四事巧相違。令三人卻憶二湖邊寺一。垂柳陰々晝掩レ扉。
)の諸篇の如き、其妙處を見るべし。
淡窓詩話(18)に続く