陶王孟韋柳の五家、予其詩を愛して之を諷詠すること、頗る熟せり。然れども其詩を詩法として之を學ぶには非ず。凡そ古今の人相及ばず。且人々の天分あり。強て古人を模倣することあるべからず。予が五家の詩に於ける、享保の人の于鱗を學び、近人の放翁を學ぶなどとは、大に同じからず。若し我門に在る者、是等の詩を模倣して、是れ我師の流派なりと云はば、大に予が本意に背くことなり。先此意を熟知すべし。
陶詩の今に存するもの多からず、其集を觀るに、精粗相半せり。世人唯其詩の高妙なることを賛嘆するのみにて、其精粗を分つこと能はず。是れ唯虛聲に吠ゆるのみにして、其實を知らざればなり。陶詩も善き詩は、皆心を用ひて鍛錬せしものと見えたり。其粗作は皆意を用ひらざるものなり。此處は古今別なし。俗人は淵明などは詩に心を用ふる人に非ず、只口に任せて言ひたるが、自然にて善きことと思へり。詩を知らざるの至りなり。
陶詩は旨趣平淡なれども、聲調瀏喨(リュウリョウ)たり。故に朱子も「詩健而意閒」と評したり。詩の健なるは、卽ち調の瀏喨たるなり。意閒なるは、卽ち旨の平淡なるなり。天を樂み命に安んず、旨の平淡なる所以なり。英氣中に存す、調の瀏喨たる所以なり。凡そ詩は色と聲との二なり。其色淡なるものは、其聲響あるべし。淵明浩然が如き是なり。其聲和するものは、其色濃かなるべし。摩詰蘇州が如き是なり。是等の事、人々の容易に辨識すべきことに非れども、陶詩の妙を論ずるに因り、少しく其旨を洩すものなり。
淡窓詩話(3)に続く