2012年6月2日土曜日

淡窓詩話(2)

○問 先生陶王孟韋柳の詩を好み玉ふと聞及べり。五家の妙處及び長短、何れの處にありや。

陶王孟韋柳の五家、予其詩を愛して之を諷詠すること、頗る熟せり。然れども其詩を詩法として之を學ぶには非ず。凡そ古今の人相及ばず。且人々の天分あり。強て古人を模倣することあるべからず。予が五家の詩に於ける、享保の人の于鱗を學び、近人の放翁を學ぶなどとは、大に同じからず。若し我門に在る者、是等の詩を模倣して、是れ我師の流派なりと云はば、大に予が本意に背くことなり。先此意を熟知すべし。


陶詩の今に存するもの多からず、其集を觀るに、精粗相半せり。世人唯其詩の高妙なることを賛嘆するのみにて、其精粗を分つこと能はず。是れ唯虛聲に吠ゆるのみにして、其實を知らざればなり。陶詩も善き詩は、皆心を用ひて鍛錬せしものと見えたり。其粗作は皆意を用ひらざるものなり。此處は古今別なし。俗人は淵明などは詩に心を用ふる人に非ず、只口に任せて言ひたるが、自然にて善きことと思へり。詩を知らざるの至りなり。

陶詩の妙、其辭を古にして、其趣を新にするに在り。其四言は三百篇を模す。而して風神大に異なり、今一二を挙げて言はんに、「有洒有酒。閒飲東窻。」(「停雲」停雲靄靄。時雨濛濛。八表同昏。平陸成江。有酒有酒。閒飲東窻。願言懷人。舟車靡從。)また「有風自南。翼彼新苗。」(「時運」邁邁時運。穆穆良朝。襲我春服。薄言東郊。山滌餘靄。宇曖微霄。有風自南。翼彼新苗)上の二句は其まヽの詩經なり。下の二句は詩經に似たりと云ふべきや。五尺の童子と雖も、其類せざることを知る。是れ陶が古を學ぶに長ずる所にして、所謂不卽不離と云ふものなり。五古は漢魏を學んで、風神又異なり、是も四言に準じて知るべし。歸去來辭、楚辭を學んで、其神ますます異なり、「雲無心以出岫。鳥倦飛而知還」など。屈原宋玉に似たりや。其體いよいよ古にして、其趣いよいよ新なり。是れ陶が妙處の一なり。

田園の趣を寫すこと、陶に始まれり。漢魏の詩は、其述ぶる處、大抵富貴聲色の樂、生死離別の感のみなり。陸機が文賦にも、「詩緣情而綺靡(キビ)」と云へり。乃ち此の處を斥()すなり。晋人に至りて、稍〻玄遠の旨を加ふと雖も、畢竟綺靡を脱せず。淵明に至りて、始めて田園閒適の景を寫す。上は漢魏を越えて豳風(ヒンプウ)小雅の諸篇に接し、下は唐宋の人の粉本となる。是亦陶詩の古今に獨歩する所以なり。

陶詩は旨趣平淡なれども、聲調瀏喨(リュウリョウ)たり。故に朱子も「詩健而意閒」と評したり。詩の健なるは、卽ち調の瀏喨たるなり。意閒なるは、卽ち旨の平淡なるなり。天を樂み命に安んず、旨の平淡なる所以なり。英氣中に存す、調の瀏喨たる所以なり。凡そ詩は色と聲との二なり。其色淡なるものは、其聲響あるべし。淵明浩然が如き是なり。其聲和するものは、其色濃かなるべし。摩詰蘇州が如き是なり。是等の事、人々の容易に辨識すべきことに非れども、陶詩の妙を論ずるに因り、少しく其旨を洩すものなり。

 淡窓詩話(3)に続く