2012年6月9日土曜日

淡窓詩話(9)

問 詩は禪の如し悟を得るに在りと。小子輩如何なる處に力を著けて悟を得べきや。

詩に禪を以て譬とすること、嚴滄浪に始まれり。凡そ悟と云ふものは、禪に限らず、一切の事に在るものなり。何事にもあれ。其意味の心には解すべくして、口には言ひ難き所あるを會得したる。卽ち悟なり。故に悟の道は、師も言を以て弟子に授くること能はず。唯學人の精思よりして得る所なり。若し悟を得んと欲せば、精思研窮するの外なし。予詩を學びしより四十餘年、今日の得る所、大抵悟入なり。然れども禪の所謂頓悟と云ふが如きことは稀なり。皆功を積んで、自然と其意を得たるのみ。今悟を得んと欲せば、先づ古詩を熟讀すべし。乃ち李が表逸とは、何れの處か是れ飄逸、杜が沈鬱は何れの處か是れ沈鬱、其他何れの處か是れ高古、何れの處か是れ清麗と、古人の品目せし所以を考ふべし。如是なれば、其初は茫然たれども、後には言外に其旨を得るなり。已に古詩の味を悟れば、己れが詩の意味も亦明かなるものなり。試に己れが詩を以て、唐宋明清諸家の詩と並べ讀むべし。其風神氣韻の同じからざる處、自ら心中に了然たらん。然れども之を未熟の徒に喩すことを得ず。是れ我悟境なり。