2012年7月1日日曜日

淡窓詩話(24)

淡窓詩話(24)は、淡窓詩話(23)の続きです。

◯ 中川玄佳問 詩を作るの要、何を以て先とすべきや。


陸放翁は七律に長したる人なり。然れども其七律、唐人の精齊森嚴なるに及ばず。唐人を學ぶに如かず。其他の體は、之を學んで害なし。宋人の中にて放翁最も學ぶべし。東坡は善しと雖も、非常の才學あるに非れば、學ぶことを得ず。其他の諸子も、之を學べば奇僻に落ち易し。

唐宋詩醇は善書なり。但古詩を學ぶに宜し。近體に切ならず。

高青邱が詩、明朝第一たること甌北が說あり。誠に然り。予嘗て一讀す。極めて人に益あるを覺ゆ。

王李七子、皆情を寫して景を寫さず。予坊本の七子七律の抄中に就き、たヾ滄溟が「樹色遠浮疎雨外。人家惣斷夕陽前。」の一聯を取る。是れ少陵が「返照歸雲」の聯に劣らず。

「清人の詩は、唐詩を學ぶの階梯と爲すべし」と。先哲云へり。此言取るべし。清詩は典を用ふるに巧に、對を取るに巧に、議論に巧なり。之を讀めば、人をして趣向を生ぜしむ。但時々理屈に落つる處あり。讀者其心得あるべし。

沈德潛は詩に巧者なる人なり。其著述、唐詩別栽、明詩別裁、國朝詩別栽、皆學者に益あり。批評の中に人意を啓發する處多し。

邦人の詩、之を讀めば、極めて入り易し。必し も禁ずるに及ばず。但正享の際の詩は、今人卽に之を厭ふこと深くして、讀むに堪へず。近人の詩を讀むべし。六如茶山山陽など皆名家なろ。但燗熟に過ぎたり。讀者其心得あるべし。

正享の際、明體を學ぶ者の詩は、生に過ぎ、宋體を學ぶ者は、熟に過ぎたり。論語に「失飪不食」と見ゆ。此の二の者皆失飪なり。學ぶ人の腹中に宜しからず。

予曾て某生の詩稿に題して曰、「正享の際、學王李七子。雖山人野衲。其所言皆官情吏務。天明以来尚范陸之派。雖顯貴之人。所者不閒興野趣。夫詩言人情。人情不是偏。則詩道亦不是偏。」也。

明體を學ぶ者、好んで金玉龍風彩雲綺樹等の字面を用ひ、之を壯麗と思へり。佛檀の飾の如くにして、極めて人を俗殺す。予深く此類を憎む。此區域を脱せざる人は、與に詩を言ひ難し。